つかこうへいと僕(3)

つかこうへいと僕(3)

 9PROJECT 10周年特集の一環として、僕とつかさんのことをちょっと書いてみようと思います。書いたら長くなったので、(1) (2) (3)に分けようと思います。

つかこうへいの真横にいた日々

 大分から戻った後は、つかさんと一緒に書斎にこもって、台本の直しを手伝いました。稽古場でマシンガンのように付けられていく芝居を死ぬ気で書き起こしました。ワープロ要員といえばそうなのですが、書斎と稽古場、テキストも俳優も、その両方で無限に変わっていく芝居を全部見ることができたのは、作家としてかけがえのない経験でした。

 台本作業が終わると、よく飲みに連れて行ってくれました。二人っきりで、つかさんは何もしゃべらなくて、たまに口を開いて言うことといえば、

「食べろよ」
「飲めよ」

 それだけ。
 頭の中ではずっと芝居を作っているのが分かってましたから、僕もただ黙ってチビチビとお酒を飲みながら、そんなつかさんを見てました。一人の役者に対して、稽古場でぶつけている言葉、その人のために何度も書き直している台詞、二人で飲んでいる時にポロッとこぼれる本音(?)、一つも漏らすまいと思って全部見てました。短い間ではありましたが、一番間近でつかこうへいという人間を見ていられたことが、人間として一番成長させてもらったんじゃないかな、と思ってます。

(ちなみに、これだけお膳立てされながら、その後もウダウダと役者の道を諦めきれずにいた僕でしたが、いろいろな公演で使ってもらいながらも、認めてもらえたことは一度もなかったなあ…はからずも、最初の目標であった「諦めること」が、あの最初の稽古で達成されてしまったわけです)

 そうそう、「本を書け」というのは言葉だけではありませんでした。東京に戻ってすぐ、北区つかこうへい劇団で僕が脚本の公演を企画してくれたし(書けずにまたクビになりましたが…)つかさんの縁で少年隊の「PLAYZONE」の手伝いに入ったことが、脚本家としてのデビューにつながります。言うだけじゃなく、僕が独り立ちできるまで、きっちり面倒を見てくれたわけです。

 それから10年近く…
 2010年7月、つかさんは亡くなりました。

それからのこと

 まあ、末期であることは随分前から分かってましたから、驚きはありませんでした。最後まで、僕らに弱いところを見せずに逝ってしまったので、今も僕の記憶にあるつかさんは、二人で飲んでた時の、あのつかさんです。

 一年後、北区つかこうへい劇団は解散しました。その時の解散公演で、「飛龍伝 ’90」と「飛龍伝 2000」を演出させてもらいました。(ちなみに、90の方で美智子をやっていたのが高野で、一平をやっていたのが智之です。つまりこれが、9PROJECTの結成メンバーです)

 後継である「北区AKT STAGE」を立ち上げて、監事として運営に奔走して、もっと自由に芝居をしたいなあ…と思って9PROJECTを作って、やがてAKTを退団して…その9PROJECTも結成10年。

 うん、長えな。(笑)

 でもねえ、思うんです。9PROJECTで70〜80年代のつかこうへい作品をやるようになって、なんかつかさんのことがもっと分かってきたなあ…と。本人が目の前にいるとですね、人間パワーにやられちゃうわけですよ。とても冷静じゃいられない。でも戯曲は違います。コロコロ台詞を変えないし、こっちが理解するまで待ってくれます。あの頃には分からなかった「あ、こういうことやりたかったのか」「こんなこと考えてたのか」というのがいっぱい見えてきます。それが今、とても楽しいです。

 とまあ、長々と書いてきましたが、何が言いたいかといいますと…

 僕はつかさんのおかげで今ここにいるし、つかさんの本が好きだから今もこうしてやってる。
 そして今でも、つかさんの本は僕を成長させてくれてる。

 ってことです。

 結成10周年。いつまでやれるか分からないし、もうだいぶ作品もやり尽くしてきちゃってるんですけど…まあもうちょっとは頑張ってみようかなあ…と思っていますので、どうぞ皆様、お付き合いいただけましたらうれしいです。