つかこうへいと僕(1)

つかこうへいと僕(1)

 9PROJECT 10周年特集の一環として、僕とつかさんのことをちょっと書いてみようと思います。書いたら長くなったので、(1) (2) (3)に分けようと思います。

「諦める」ためにオーディションを受けた

 僕が演劇を始めたのは、大学の時にふらりと入った演劇サークル。やりたい人が集まって、学内の会議室で見せるだけの気楽なサークルでした。そんな中で、つかさんの芝居と出会い、すっかりハマって著作を読み漁り、サークルで上演し…と順調につかこうへいフリークへの道を歩んでいました。

 そして大学3年の冬。進路を決める時期に、北区つかこうへい劇団のオーディションを受ける決心をしました。芝居はやりたいけど、たぶんその能力はない。でもどうせ諦めるなら、中途半端な人間に判断して欲しくない。つかさんに「無理だ」と言われたら、スパッと芝居をやめられる。それが理由でした。

 ま、つまり、僕は「諦める」ためにオーディションを受けたのです。
 そして、なぜか受かったのです。

 そして半年の養成期間。当時の北区つかこうへい劇団は、千円劇場がスタートしたり紀伊國屋公演が何本もあって、バタバタでした。レッスンスケジュールは渡されていましたが、それが履行されることはなく、とにかく本番の稽古場に行って芝居を見る、ちょい役で出させてもらう、あとは見る…の繰り返し。レッスンの合間に大学の研究室に顔を出そうと思っていた僕は、全く不可能だと思い知りました。

 ちなみに、この時の紀伊國屋公演では、諸事情あって一つの演目が潰れ、「二等兵物語」が新作として作られることになりました。僕たち研究生もその稽古場に一度だけ呼ばれ、一度だけつかさんの前で台詞を読みました。もちろん、箸にも棒にもかからず、後は先輩たちがボコボコにされてクビになっていくのを震えながら見てました。

 ちなみにオーディションから研修期間、僕がつかさんに芝居を見てもらったのは、この時の一度だけでした。そりゃもう、ブルブルです。

 8月、紀伊國屋公演が終わり、とうとうレッスンが始まりました。でも卒業試験は9月。たった一ヶ月のレッスン期間で「熱海」の抜粋を作り、試験となりました。(そう言えば、この時の僕は熊田でした。残ってからは大山ばっかりでしたが…)

 そして、なぜか受かりました。

そして、大分へ

 それからすぐに、「ロマンス」の公演の裏方手伝い。全員のタキシードにスチーマーをかけ、ワイシャツにアイロンをかけ、古賀さんが毎日のように破く着物を縫ってました。

 そして運命の10月。ようやく大学に通って卒論のための研究をしていた僕でしたが、事務所から一本の電話がかかってきました。忘れもしません。土砂降りの雨の日、近道のために通っていた墓地の中、カッパを着てチャリで走っている最中でした。

「渡辺くん、大分に行ってくれる?」

 …終わった。もう大学は無理だ。瞬時にいろいろな思いが駆け巡る中、僕は一言「分かりました」と言って電話を切りました。

 幸い、研究室の先生も先輩たちも、僕の事情を理解してくれて温かく送り出してくれました。この時のことは、今でも本当に感謝しています。(すでに必要な研究を割り振られてたので、めっちゃ迷惑かけた)

 そして数日後、僕は大分に旅立ったのです。